:

【閲覧注意】自分の死についての考え方を整理したい

祖母が亡くなりました。ほんの少し前までは元気だったのに…突然の、そして奪われたと言っても間違いではないくらい無念の死だったと思います。


仕事もしばらくお休みをもらって、法要を黙々とこなしながら、また家族と故人の思い出を語り合いながら、ゆっくり過ごしていました。その中で、自分の“死との向き合い方”が他の人と少し違うのではないかと思うようになり、それがさらに頭を悩ます原因になりました。今日は、大袈裟かもしれませんが自分の死生観、おもに死についての考え方を文字に起こして整理したいと思います。


※当記事は全てが個人的な解釈によるもので、私とは違った価値観・考え方を持つ読者を否定するものではありません。また通念上歪んだ視点で書かれていますので、気分を害する恐れがあります。ご理解のうえお読みください。

 

死者は何も感じない

魂の存在についてここで議論するつもりはありません。たとえ魂が存在すると仮定しても、それは生者には何も干渉しないと思っています。

つまり、死者は(既に死んでいるので)生に執着したり、生者に特別の感情を抱くことは無い、ということです。だから、通夜や葬式といった行為はただ儀礼的な因習・慣習程度の意味しか持たず、「死者のため」という概念は自分の中に存在していません。「可哀そう」という気持ちがあってそれを形に表したとしても、死者は何も感じておらず、「死者のため」という目的だけを対象にしてみれば“無意味”だとさえ思っています。

自分が死んだ後にも、葬式で無駄な金は使って欲しくないし、お寺やお墓にも多額のお金を払って欲しくない、そう家族には伝えてあります。

 

死者とは会いたくない

そんな私も今回、葬儀には参列しました。なぜ無意味だと思っている儀礼的な葬儀に参加したのか。それは死者には無意味でも、生者には意味のあることだと思っているからです。故人の生前の元気な遺影を見て懐かしみ、親族同士で故人の楽しい思い出を語らう、そういった行為は自分がまた前を向いて歩けるように、故人のことを忘れないように心に刻む目的があります。
また故人の最後の姿を見たいとも思いません。妻には「故人の最後の姿を見てあげなくていいの?もう二度と会えないんだよ。」と言われました。その通りだとは思います。ただ「もう二度と会えない」に関しては、死んでいる以上当たり前だし、最後の姿を見て「あげる」、についても死者は何も感じていないので、必要を感じません。もの凄く冷酷な人間だとお思いでしょうが、私にとってはむしろ死んでいる故人を見る方が辛く悲しい行為なのです。元気で生き生きとした故人は私の中でずっと生き続けています。死んで空虚な骸となった姿は、全く想像できません。

 

しっかりと死と向き合えたか

葬儀からしばらく経ち、少しずつ落ち着きを取り戻しつつある今、はたしてちゃんと死と向き合えたか、これから前を向いて歩けるか、自問自答します。当記事を書いている間にも、考えが定まらず、本当にこれでいいのか迷っている自分もいます。もしかしたら、私は死と直面するのが怖くてただ逃げていただけなのかもしれません。ただ、死に関連した儀式の数々が、死者のためではなく生者のためだという気持ちはブレていません。死という困難を乗り越え、自分が前を向いて生きることができるか、故人に恥ずかしくないような人生を送れるか、そんな問いには力強く「はい」と言えます。今はただただ心底悲しく、悔しい思いでいっぱいですが、それらが薄れたとしても忘れることはありません。ずっと故人を想いつづけます。

 


天国や極楽浄土はあるのか、あったらそこで生者を見ているのか。どんな感情なのか。全てが想像することしかできません。でも全てが無意味だとは思いたくない。見えないからといって、全てが存在しないとは思ってはいません。

こんなことをここで言っても意味は無いかもしれないけど
おばあちゃん。こんな不遜な孫にはなってしまったけど、許してね。
心からおばあちゃんのことが大好きでした。